二十歳

   忘れもしない二十歳の誕生日。とても外食のできる情勢ではなかったから、家でいつもよりも豪華な夕食を食べたのだけど、どうも味がしないし匂いもしなくて、おや?と思った。昼食まではなんてことなかったのに、まるで鼻を摘みながら食べているみたいで、いやな予感がした。熱もない咳もない息苦しさもない。ただただ味覚と嗅覚が死んでいた。今でこそ簡単にPCR検査が受けられるけれど、あの頃はまだ熱が基準だったから保健所に電話を掛けても「家にいて」としか言われなくて、自分がコロナなのかコロナじゃないのか、家族やアルバイト先は大丈夫なのか、色んなことが不安で仕方なくて何日か眠れなかった。二十歳の始まりはそんなこんなでひどいものだった。

   小学生の頃、ニブンノイチ成人式と呼ばれるものがあった。十歳の自分が二十歳の自分に手紙を書いて、それを校庭に埋める。あれから誰かが掘り起こしたのか、そもそも本当に埋めてくれたのか、そんな話が私の耳に届くわけもないが、少なくとも十歳の私は未来の私に絶望はしていなかった。それほど二十歳という響きは大人を彷彿とさせ、今の自分とはおよそかけ離れた存在だと感じていたからだろう。ところが、あと数時間で二十一歳にもなるというのに、この体たらくだ。あの日の私が知ってしまったとしたら、衝動的に屋上から飛び降りたくもなっていただろうな。ごめんね、本当にこんな私でごめんなさい。

   二十歳になった、ということ。それは私にとって、酒の味を覚えることであり、味覚が変わることでもあった。一生美味しさなんか知らなくていいと思っていたビールが美味しくて、このために生きているとすら思える。その代わり、おいしいおいしいと頬張っていた激辛麻婆豆腐は、今までの量を食べきれなくなったし、甘ったるいアイスクリームばかり食べていたはずなのに、もう食べたいとも思わない。今はガリガリくんが美味しい。普通のアイス一個分のお金で二本も買えてしまうから、ちょっぴり多く幸せになれる。それでもソフトクリームだけは相変わらず美味しいし、ビールはよくてもコーヒーはまるでだめだが。

   大学はオンライン授業、かつ、殆どがオンデマンドだったから、顔を合わせるのは本当に家族とアルバイト先のおばあちゃん達と、家の近い友人一人だけ。通学の負担と人と顔を合わせる緊張がなくなったことは、友達のいない人間にはかなりありがたかったけれど、孤独に拍車はかかった。助かったような助からなかったような、どっちらけで薄っぺらな、なくても変わらなかったかもしれない味気ない一年間だった。そのおかげでどうにか進級できたことだけが喜ばしい出来事。あとは、何をしただろう。自動車免許を約一年掛けてどうにか取ったけど、あれも壮絶だったな。

   それから、好きなアイドルには会えるときに会わなければ、と強く思った。だけど、開催されていたら行けなかったであろう握手会がオンラインになったおかげで、推しと会話をするという、一生に一度しかないであろう機会を手にすることもできてしまった。間違いなくこの一年でいちばん大きな出来事だった。あとは、外に出られないなら中で作ってみようと初めて思ってSNS上に友達をつくった。虚しさから辞めようと思ったこともあったけれど、居場所の数が増えたことは嬉しいことで、できるだけ長く大事にしていきたい。

   それでも、どれだけ楽しかった日の終わりだろうと、ふと気を緩めた瞬間にため息をつくようなさりげなさで死にたいと思ってしまう。そんなばかなことを考えてしまうのはもうやめようがないから、いよいよ諦めることにした。どうせ思うだけに留まるのだから口癖のようなものだ。二十歳になって、自分がこれまでの人生で築いてきたものが一つもないことを理解する一年となった。

   友人もまた自分だけがいつからか止まっているような気がすると言っていたが、自分の変化に気づくことはきっと難しいことなのだろう。私の目から見れば変わっていない人などいない。確実に見た目だけじゃなく中身も大人になっているし、そうなろうと努力もしている。私はどうだろう。客観的に見ても主観的に見ても変わらないどころか、逆戻りをしている私は何をしているのか。二十一歳になって三十歳になって四十歳になって?平均寿命を考えればそれでもまだ人生は半分も残っている。死ぬまでこの癪気とともに生きていくだなんて、私には到底耐えられそうもない。

   せめて、自分の手で幕を引きたいと思う。何となくを生きるにはもう疲れきってしまった。だからといってどうすることもしていないのが現状だが、どちらにせよ、ただ願って待っているだけではあまりに長すぎる。灰色の海ばかり見るのもいい加減に飽きてしまった。どうせ生きていくのならもう少し納得のいく人生を送りたい。自分で送れるようにしなくては。

星とピアス

   退廃的な日常に財前光と立っている気がした。気がしただけであってもちろん彼は私のそばにはいないし、そもそも存在すらしていないのだけど、私の中で彼は可視化できないくせに限りなく現実に近い色も匂いも形さえも持っていた。

   殊に厄介なもので、私は財前光に自分の中学時代の多くを重ねてきた。いきすぎた期待で作り上げてきた彼の像が既に完璧に出来上がってしまっていたせいで、いつの間にかミュージカルでの彼を見ることを避けるようになっていた。漫画にして僅か数頁数コマだろうと、劇中の連続する時間の中には漫画に描かれていない焦点の当たらない瞬間が存在して、その時間の解釈は役者の方に委ねられる。試すような邪な気持ちで舞台を見つめるのがいやだったという理由もある。だけど、結局すべては理想が崩壊することが私にとっては自己を否定することと同義だったからにすぎない。

   先日何度めかの夏が終わろうとしていた。というのも、ミュージカルの話だ。私の住んでいる場所があまりに僻地なために東京まで行く決断が出来ないまま千秋楽の日を迎えてしまって、結局近くの映画館でライブビューイングを観るに留まってしまった。私は2ndシーズン止まりなものだから、3rdシーズンに関しては跡部景吾の優雅さを知っているくらいで、本編を通しで観るのは初めてだった。人気の二人が絡む度に露骨に盛り上がる一部のお客さまには心底嫌気がさしたけれど、3rdシーズンでも白石蔵之介のエクスタシーが見れて物凄く嬉しかった。あとはオサムチャンには永遠に忍足謙也のままでいて欲しかったというのが本音ではあったけれども、彼のオサムチャンだって愛があってとても素敵だった。DVDを買って見返さないとよく理解出来なさそうな擬態語が散りばめられた新曲の数々には正直めちゃくちゃ驚かされたし、既存曲はミュージカル仕立てにアレンジされたものが多かったように思ったけれど、そもそもテニミュはミュージカルなのだった。過去から見ようとすればテニミュらしくないとも言えるのかもしれないけれど、凄く綺麗にまとまっているのにそこはかとない熱量を画面越しにも感じられて、終始とても楽しかった。

   代が替わる度にキャラクターの新たな可能性をあたかも現実のように見せてくれる、そんなところにテニミュの面白さがあると私は思っている。ビジュアルのことや俳優としての諸々の力量が比較されてしまうのはそれが2.5次元だからというのも多分にあるだろうし、特にテニミュは歴代の功績が大きすぎることもあると思う。それでもあの日私が見たのは、紛れもなく中学二年生の財前光だった。キャラクターの可能性などという、生ぬるいものなどではなかった。

   私は、忍足謙也の存在は財前光にとってひかりなだけでは済まされるはずがないと思っている。財前光が臨む次の夏も、実現しなかった忍足謙也とのダブルスのことや敵わなかった相手との実力の差や不条理さが頭の片隅にこびりついて、もしかしたらこの先ずっと忘れられずに時折軋むことがあるかもしれない。負けすら感じさせてくれない前代部長の人間的強さに自分の小ささを見るかもしれない。中学生は脆くて儚い。殊に彼は中学生らしく、人間らしく見えるのだから尚更だ。四天の二人だけはあの夏が永遠に終わらないような気さえしてしまうのだ。等身大の葛藤、劣等感、歯がゆさも喜びもすべて、彼の発する言葉の感情を味わうのが楽しくて同じくらいに苦しかった。感情の起伏が少ない彼の内に秘めた激情を見せてもらった。演じきってくれた廣野さんには感謝しかない。目を逸らさないで財前光を見つめることができたのは、廣野さんのおかげだった。

   在りし日の彼に対する濁った情熱も執着もいつの間にか昇華されて、今はもう自分を重ねることもないし、ミュージカルを避けるようなこともなくなった。恐らくこれが2次元との適正な距離であり正しい愛し方なのだろう、残念ながら私に断言することはできないが。今だって彼のことは好きや嫌いだけでははかれないけれど、あれは私の愛の形だったのかもしれない。愛だったとして、なんと歪んでいることか。次期部長の彼に託されたものは大きすぎるかもしれないけれど、きっと器用な彼ならば成長への糧にしてしまえるだろう。中学生には脆さを上回るだけの勢いがある。どうか反骨心をも抱きしめながら生きて欲しい。今だから本心でそう思える。

高校を辞めなかった話

(つづき ─ 卒業 )

   来る高校三年生。前述の高校で唯一できた私の友達が、受験生という重たい肩書きを着せられる春の嵐が過ぎる前に亡くなってしまった。今ですら折り合いがついていない。三年生にもなって学校を辞める辞めないで悩む気はさすがになかった。もう痛みすら感じないから少し吹っ切れてしまっていたのと、クラス替えが行われたことで多少は前向きな新学期を迎えたのだが、登校初日に突きつけられたその事実に生活は再び逆戻りしていった。逃れようのない呪縛。なぜ彼女が死ななくちゃならなくて死にたいだけの私が生きているのか、自分を責めた。何も考えないための手段は勉強しかなくて、受験生の間は嫌いだったそれをこなすことが不思議と全く苦だと思わなくなっていた。螢雪時代に載るような素敵なサクセスストーリーでもなければ前向きな心境の変化でも転機でも決してそんなものではない。こんなことを言いたくはないのだが、私を受験生たらしめたのは間違いなく彼女の死だった。
   
   休むための時間が欲しい、何もしないことを許される時間が欲しい。誰にも言ったことはないけれど、私の進学理由は本当にこれだけだ。確かに進学校なだけあって就職は前提とされていないというのもあったけれど、とても就活をして春からまともに働ける気がしなかった。思い返してみれば、高校受験時には大学へ進学する気でいた。でも、この頃には大学に行ってまで勉強したいことなんて何一つもなかった。将来のことなんて思い描けるわけもない。こんなことを書いたら親不孝者だと、今すぐ辞めて詫びろと誰かに後ろから刺されてしまいそうだけど、正直に言うと本当にそれだけだ。先の進路を考える間もなく、ドロップアウトするかしないかという今の時点でしか生きてこれなかった私は、当然今まで進路志望調査もなあなあに出してきた。高校三年生の夏になってようやくオープンキャンパスに出向き、秋になってもまだ第一志望が決まらない、第一志望が決まらないと勉強が手につかないという悪循環に悩まされていたが、それでもどうにかこうにか未来を見据えようとしていたのだから、私なりの進歩といえば進歩だったのかもしれない。  

   頭が空っぽになっていた私に、亡くなった彼女とは別の友人ができた。殆ど私とは対極にいるような人だったけれど、何となく一緒にいると安心できて、ちょうどいい距離感でいられるのがその時の私にはありがたかった。以後、卒業までの一年間、二人で学校生活を送ることになったのだが、実に彼女には申し訳ないことをしてしまったと思うし、よく最後まで私と友達でいてくれたと本当に心から感謝している。高校を辞めたい大きな理由には友達がいないことが辛かったことがあると書いたはずだが、いざ友達ができても自分の内を占める癪気は膨れ上がるばかりで、サボり癖は治らないどころか悪化の一途を辿り、精神の疲弊も相まってなのか、週五日無遅刻無欠席無早退で学校に通えたことの方が少なかったと思う。毎日繰り返す胃腸炎のような痛みに耐えかねて病院に行くと「胃が穴あきバケツみたいになってるね。根本的なものを治さなきゃ薬なんて一時しのぎにしかならんよ」そう言われる有り様だ。病名がポンポン出されても元を辿れば全てストレスが原因なのだから、聞き飽きてからは体調不良をデフォルトと思い込むようにして病院に行かなくなった。病気の話は関係ないから端折るけれど、この三年間で随分とまあ病院に通う羽目になって、果ては肛門科にまでお世話になってしまった。

   大学受験はそこそこの努力と、その不足分を補ってくれたのはここでもやはり自分の地頭だった。停滞期とやらが訪れる前にセンター試験がやってきて、運良くことが進んだおかげで呆気なく私の受験は終了し、高校も卒業が決まった。二年生の夏から高校を辞めたいと口にすることも、高校の話自体もせず淡々と通学するようになっていた私は、最初で最後のお願いと称して両親に卒業式へは来ないでくれと頼んだ。これはあの頃の私にまだ残っていた意地と反抗であり、二人への最後の信頼だった。その約束さえ守ってくれたのなら、この三年間のことはすっかり忘れたふりで乗り越えた顔をして、何のしがらみもない高校入学前の私、または大学生になった私で両親と接していけるように思っていた。というのに、離れた場所に暮らす父親はわざわざ最終便に乗って夜中に帰ってきた。母親は最初から最後まで黙っていた。理不尽な怒りが込み上げてきて、勢いで自室のものをなぎ倒し壁に投げ酷い荒れ方をしてしまった。なんというか、私自身が学校と化していて、そこに踏み入れられることは私の中に踏み入れられることと同義だったのかもしれない。   
   
   卒業式の日、そこにいたのは確かに友達と笑い合う普通の高校生である私の姿だったはずだ。だけど、同じ場所には紛れもなく涙を飲みながら三年間を過ごした私がそこにいるわけで、あの頃の自分が両親を受け入れようとしないから、今の私までどんな態度を取ればいいのかわからなくなってしまった。普通に会話はするが、私の中のわだかまりは残ったままで今日に至っている。

   高校から解放されたのも束の間、高校三年間分の行き場を失った疲れなのか何なのか、よくわからないものに心も頭もすっかり腐らせてしまった。 根本的な問題が解決されれば元通りになると思うだろうか。残念なことだがそれに付随して生じた問題が根深く巣食ってしまうと、そう簡単に元のようには戻れないらしい。それどころかいつの間にか戻る地点がなくなっていて、そのまま折り合いをつけて生きていくことしか出来なくなってしまう。今もまだ、私が私じゃないように感じることがあるが、それが今の私なのだ。
   
   何かに迷うとき、いつも同じ分岐点ばかりを思い出す。あの高校を辞めて違う選択をしていたとして、今とどれだけ違う未来が待っていたのだろうか、と。でも、どうせ同じだっただろう。辞めたあとの進学先だけは今の方が幾分かグレードアップしたくらいで結局環境という意味で良くも悪くも大きく変わろうが、私が私である限りは何も変わらない。そんなことを、意味のないことばかりを反芻しながら、酒を飲んで明かす夜が増えた。ろくでもない子どもだったし、このままじゃろくな大人にもなれそうにない。いつまでも空っぽだし、空っぽがアイデンティティとして定着してしまったせいで自分が空っぽなことに悩むこともなくなってしまった。ここまで諦めないでやってきたことに何の意味がある、何の意味があると思うみんなは、なんて、前までアイドルだった子の言葉が時々頭を過ぎる。わかんない、答えられない、答えたくもない。いつも選ばないことだけを選んでいる。忘れたふりをしてふたをしてみたらこの二年もの間に自分は何に悩んで何に苦しんでいたのかも曖昧になってきた。半分は何だかもう本当に自分でもよくわかっていない。
   
   問題を先延ばしにしたところで、暇と孤独に蝕まれてしまうだけで終わってしまうのだ。いずれかの方法で自分で納得のいく形の折り合いをつけなければだめになるだけなのかもしれない。家にいる時間が長くなればなるほど外に出たくなくなるように、学校に行かない日が増えるほど学校に行けない日が増え、人と話さないから話せなくなる。引きこもりやコミュ障を悪化させる。その内、外に出ること自体が怖くなってくる。自分を助けてあげられるのは自分しかいない。そのためには自分が自分で選ばなければならない。その上、選んだ選択が正しかったのか、間違っていたのかはすぐにはわからないからとても難しい。我慢することが自分自身にとって本当に美徳なのかはよくよく考える必要があると思う。誰にも理解してもらえなかったとしても、あなたにはあなたの地獄、私には私の地獄がある。
 


 

高校を辞めたかった話

(つづき ─ 高校二年生末)

   二年生に進級した私はもぬけの殻でしかなかった。母親のあの言葉がなぜか片時も頭から離れないまま。初めはなかなか学校に馴染めなくて友達ができない、とか、進学校の勉強が難しすぎて既についていけそうもない、だとか、そんなありきたりな不安が高校を辞めたいだなんて浅はかな解決策を思いついたくらいのことだったはずなのに、日に日にすべてがいやになっていった。あの高校も、あの高校にいる自分も、突き詰めて考えた先、自分の存在そのものすらいやでいやで仕方がなくて、気がおかしくなってしまいそうだった。朝起きて支度をして家のドアを開けても、一歩目が踏み出せない。わけもなく涙が溢れてきて電車にも乗れない。自分が内側から死んでいくのがわかって怖くなったとき、初めて私は母親に「高校を辞めたい」と告げた。確か、ゴールデンウィークが始まる少し前のことだ。

   これを乗り越えたら強くなれるだとか、将来のための学歴だとか、両親は口を揃えて何度も私を説得しようとした。言いたいことは痛いほどよくわかっていたけれど、今の私がいないのならこの先の私もいないということをどうしてわかってもらえないのか、どうもその時点の私のことが無視されているように感じた私は自分の存在を否定されたようで、それが高校の云々以上に辛く悲しかった。過呼吸になりながら両親の前で大泣きした。年の離れた妹がいるせいか、物分りのいい長女の像を守りつづけてきた自分にとっては、積み上げてきたものも同時に崩れ落ちていったような気がした。あんなにもわがままを言って両親に食い下がったことは後にも先にもない。しかしながら、私が泣いてどうにかなるような簡単な問題でもなく、両親はひとまずの保留を言い渡した。保留って何だろう?学校という現実は待ってくれやしないのに。涙が枯れ果てたあと笑いがこみ上げてきた。父親は最後に「妹だって気丈に振る舞ってるけど凄く心配してるんだよ」と言い残して立ち去った。あの一言が本当に要らなかった。

    どこか狂いはじめた私だが、流石にあてもなく逃げ出すつもりはなく、もし高校を辞めたとしてそれからどうしようか、紙に書き出して一つずつ考えていた。現実的な選択肢としては退学してしまうこと、休学すること、通信制等への転校、高校の再受験、現状を維持すること、そのくらい。私の住んでいる場所はどう足掻いても田舎だから、都会にはもっと素敵な選択肢があるかもしれないし、私の調べ不足もあっただろうから、絶対に参考にはしないでいただきたい。退学して社会から完全に切り離されてしまったらどうすればいいのか。仮に高卒認定試験を受けてそれに合格したとしてその先は?休学しても問題を先延ばしにするだけ、高校の再受験なんて考えられない。そんなこんなで私は、通信制高校への転校に考え至った。あれは、弱りきった自分にも希望と未来が見えた唯一の場所だった。

悪びれもせずに学校をサボり、大学のオープンキャンパスにでも行くような足取りの軽さで目星をつけていた二つの学校へ見学に行った。通信制の生活と単位の引き継ぎについて一通りの説明を受けたあと、授業をしている教室を先生と一緒に見て回った。どちらもスクーリングの多い学校だったせいか、建物は専門学校に近かった。教室の中はまるで全日制のように人が多かったのがどうも意外だった覚えがある。どの教室も、通り過ぎる度に頭のイカれた笑みを向けてくる人が一人以上いたのがかなり不気味で怖いと感じはしたものの、転校生になった気分を体験できて少しだけ面白かった。最後に紹介されたある広い教室に、先生が一人と生徒が二人いた。授業の時間なのに二人とも勉強するわけでもなくただ本を読んでいて、その目がまるで死体のように虚ろで光のないものだったことが忘れられない。実を言うと、その頃には学校に漂う空気に虚無を感じてすっかり尻込みしていた。失礼ながらにここまで堕ちたいわけではないと思ってしまうほど見てはならないものを見てしまったような気がして、来る場所はここではなさそうだと思ったとき、いよいよ八方塞がりになった。高校ニ年生の夏だった。

   寝ても覚めても意思とは関係なく勝手に涙が溢れて止まらなかった。家にも学校にも居場所がないから、いっそ窓から飛び降りてしまえばもう明日を迎えずにすむかもしれないと無意識の内に考えて何度も下をのぞき込んでしまったり、道を歩いているときに運良く車が突っ込んできて不慮の事故で死んだりできないかな、なんて想像をしては馬鹿らしくなってやめて、またすぐに想像することを繰り返した。人間壊れるときというのは意外と穏やかに、それでいて激情を伴ってやってくるらしい。例えば、家電のように。ある朝目が覚めたとき、急に物事が何も考えられなくなっていて、それからの私は辛いも悲しいも面白いも一切の感情を失い、部屋にいる時間の殆どすべてを集めてきたコナンの漫画の自炊に費やすという異常な行動に出た。色んなものがショートして無になってしまい、学校を辞めようとすら思うことがなくなった。結局私も、あの日通信制高校の教室で見た光景の一部にいたのだ。コナンに関しては結果的に五十冊ほど完成したものが手元にあったのだけど、今日まで一冊どころか一ページすら読んでいない。負の遺産すぎてこの間一括削除した。私の時間って何だかとても呆気ない。

   今の私が思うに、何か自分の心の支えとなってくれる柱のようなものを見つけ、寝ても覚めても追いかけたくなるような、好きになったばかりの勢いだけでその地獄を生き抜いていくことが最低限の生活を過ごすための最善手なのかもしれない。無責任でしかないが、やりたいときにやりたいことをやりたいようにやってみればいいと思う。授業も真面目に聞いている顔をしながら妄想でも何でもしておけばすぐに終わってしまうし、周囲を諦めたなら空気に徹して我関せずに生きていけばいい。いかに楽しい地獄に変えられるか。決して逃げの一手ではない。これが二年生後半の私の行き着いた先だが、楽しくても所詮は地獄は地獄だ。これまでの私はそれでもどうにか死んだように生きてきたけれど、ここからの私は、生きているようでとうに死んでいる。

   その夏のことだが、私は初めて一人で東京に行き、とある舞台を観てきた。春時点で既に行くことが決まっていたからそれだけを生きがいに、心の拠り所にしていたのだけど、父親から「高校を辞めるなら東京に行くのは許さない」と言われ、声にならない苛立ちと絶望を覚えた。この人は、私がすがりついているものを踏みにじって、私の心を壊してでも自分の規定した普通の道を歩ませたいんだな、と理解した。行かせないと言ったって私の稼いだお金だけで行くと明言していたというのに、当然の顔で意味のわからない不当な取引を持ち掛けてくる父親に何の権限があるのか、それ以前に人間性を疑ってしまい、あやうく危うく刺し違えるところだった。両親もそれだけ必死だったのだろう。ただ、冗談であろうと本気であろうとやり方が許せず、不信感が拭えなかった。それでも結果的に東京へ行ったことが色んな意味での息抜きになったことに違いない。その舞台中に続編が決まったこともあって、行くためには生きなくてはと体に少しだけ力も入った。

   注意すべきは、いくら成績が良くても出席日数が足りなければ進級できなくなることだろうか。数教科であと一度でも休めば留年すると電話が掛かってきたこともあったが、そうは言いつつも、私以上に欠席遅刻の多かった同級生はなぜか普通に進級して  卒業している。彼の存在のおかげで私の欠席は目立つこともなく、見咎められはしなかった。ただし、私とはサボりの理由もまるで違って、彼は興味のあるもの以外への努力をする気がないらしく、自分の夢のために全力投球しているから学校の勉強なんて必要ない、だから行かない。という、とても前向きなものだ。口の軽い担任が詳らかに事情を説明してくれた。担任は私と彼とを同じ括り方にしてきたけれど、あまりに表面すぎてこの人には何も見えていないんだな、と目の前で吹き出しそうになった。

   私は結局、高校を辞めずに卒業した。それは、立ちはだかる壁を乗り越える気力すら失ってしまい、辞めることよりも続けることの方が楽になっていたからなのかもしれないし、私とは別の高校でよく似た状況にいた中学校から付き合いのある友人に対して、自分だけが楽になってしまうことへの後ろめたさを少なからず感じたからなのかもしれない。もちろん金銭的な負担だって両親に強いることになるわけで、細かな理由なんて挙げれば尽きないが、自ら選んで辞めることを止めたのではなく、逃げて流れ着いた先が現状維持だっただけだ。それから何かが変わるわけでもなく、周りが受験ゼロ学期に勤しむ中、私は一人、八方塞がりの状態で死にたいだけの毎日を送るだけ。進路なんて言葉はどこにも存在しないし、私の人生も、私自身が空っぽだった。

高校を辞めようとした話

   ずっと高校を辞めてしまいたかった。窮屈な私立高に通うことになったのは決して本意じゃなく、どこか遠くへ行きたい気持ちだけで受けた志望校に落ちたからだ。あの頃、私は何を考えてその選択をしたのだろう。その先の進路ならまだしも、片道二時間も掛かる工場地帯の僻地にある高校を選んだのは、当然私ひとりだけだった。こうして思い返してみると中学校からも縁を切りたかったことがわかってしまう。その上、地頭だけに頼って殆ど何の勉強もして来なかったのだから、落ちるのも当然のことで、実際落ちてもちっとも悲しくなかった。でも、あれから私はちょっとだけ卑屈になった気がする。 

   だめ人間な私も中学校までは狡い欠席をしない表面上は真面目な生徒だった。高校もそれにならって入学したら卒業することが普通で当然のことだと思って生きてきたし、そもそも学校生活に何の問題もなければ、必要がないから辞めるという選択肢を考えることもない。だから、選択肢自体が存在しない。誰かからいじめられていたわけじゃない。ありがたい授かりもので、大抵のことは大した努力なく人並みを少し上回る程度にこなせたことがかなり大きかったように思う。とりわけ私は無駄に体育が得意だったせいか、普段はひとりぼっちでも、チームプレイの最中に足を引っ張らず、なおかつ最低限の協調性を兼ね備えていればその瞬間はクラス全体から暖かく迎え入れてもらえる。もちろん味方もいないから陰口で叩かれ放題だったことくらい知っているけれど、それが転じてか、いじめられたことは一度もなかった。ただ、対象が私じゃないというだけで、クラスの中でいじめのようなものは存在していた。

   高校を辞めようとした大きな理由の一つは、ありきたりにも友達がいなかったことだ。私はただただ異分子としてスクールカーストの外にいて、クラスで浮いていた。周囲とのあまりの馴染み悪さに、教室が、次第に学校そのものが怖くなっていった。思えば中学校のころからそうだったような気もするけれど、私の中学校は小学校の延長だったのと、あの高校の基準で考えたのなら、自分の周りには随分と多く変わった子がいたから、そこでつるんでおけば何ら問題なく学校生活が送れた。私の何が悪かったのか、容姿の整った一等華やかで自信と権力をもった一軍には当然なれない、それでいて誰とでも分け隔てなく会話が出来て雰囲気の良い二軍にも居場所はなくて、かといって極端に陰気な人達と一緒にいることも苦痛という、どうしようもない偏屈人間だったことに尽きる。それでも、こんな私にも高校に一人だけ友達と呼べる人がいたことにはいたのだけど、この話はいつかの日が来るまで置いておく。

   高校一年生の夏ごろからしばらくずっと、息が上手く吸えなくて苦しい時期がつづいた。あまりの苦しさに人生初の循環器科を受診し、大がかりな不整脈の検査まで受けて喘息の薬を飲まされたものの何の解決にもならず、原因は不明のままに終わった。どうせただのストレス起因のものだったのだろう。でも、いかんせん体に症状が出るのは初めてだったから、身体の病にしか結び付けようがなかった。

  その時点ではまだレールを踏み外そうだなんて考えはなかったけれど、私は少しずつ学校をサボることを覚えていった。高校生など学校をサボっても行き場もお金もないから、休んだとしても狭い自室の隅で意味もなくスマホの画面を眺めることしかすることもない。寄る辺のない自分はそれでも何かに縋りつきたかった。2chを見ているとつかのま劣等感の拭われる気はするけれど、人を見下げていると自分の汚さが顔を覗かせるようで次第に歪んでもくるし、自分じゃそのことになかなか気付けない。例えば、知恵袋か何かに答えを求めたところで悩みが解決するわけでもない。心ない回答があまりに多すぎて傷を抉られるだけで終わってしまう。友達の作り方だの、高校を辞めなかった理由だなんだと書いたやけに明るい、メール登録をさせて来たりするブログなんてさっさと潰れてしまえば良いと思いつつ、何かの糸口が見つかる気がして見るのをやめられなかった。結局のところ、どこにも居場所はなかった。

  世界の全てがうるさくて、異常に眠たかった。どうにか学校に行き、早退せずに家へ帰れば、突如として私のブレーカーが落とされる。夕飯を食べる気力もなく、制服のまま布団に倒れ込めばおしまい。気付いたら朝になっているなんてこともよくあったから、私は24時間永遠に学校に閉じ込められてる気分だった。朝の陽の光の眩しさが恨めしかった。

   そんなこんなで満身創痍になりながらもどうにかこうにか漕ぎつけた高校一年生の末、修了式の日。一年間を耐え抜いた自分を褒め、春休みという束の間の休息を前に珍しく穏やかな気持ちで母親と会話をしていた夜。何てことのない会話の流れで「この一年間、高校辞めちゃうんじゃないかってずっと思ってた」そう言われた瞬間、どうしてか私の中の歯車が噛み合わなくなってしまった。本当に何てことのない言葉だ。誰の目から見ても私は不安定な一年間を過ごしていたのだから、そう言いたくもなる。自分でもわかっていたはずなのに、どうしても返す言葉が見つからなくて、色んな思いが込み上げると同時に力が抜けたのか、私の中で何かが崩壊した。

( ─ 高校一年生 末)